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周南市美術博物館 収蔵品

周南市美術博物館では、美術、写真、歴史の分野にわたって様々な資料を収蔵しています。 今回は美術作品を紹介します。         
             

美 術


善種善果

 


善種善果

岸田劉生(きしだ・りゅうせい)
1891年(明治24)〜1929年(昭和4)

1929年(昭和4)  紙本彩色 132.0×63.0p

 明治末から昭和にかけて活躍した画家、岸田劉生は周南市で亡くなりました。

  1929年(昭和4)10月劉生は満州へ渡り、その帰途、徳山出身の画商田島一郎の勧めにより徳山町(当時)に立ち寄りました。当時の徳山は、種田山頭火とも交流のあった俳人久保白船らが徳山文芸協会、徳山洋画協会を結成するなど文化活動が活発で、徳山洋画協会同人の前田麦二、河上大二らの歓待を受けました。しかし劉生は病により料亭で倒れ、12月20日腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発し38歳で急逝しました。

  20日あまりの徳山滞在中、数点の油彩画や日本画、料亭の宴席で描いた戯画など約20点を残したとされますが、そのほとんどが散逸したり戦災などで失われ、現存するものはわずかで、「善種善果」はその中の1点です。

 

 

小樽の市場

小樽の市場

前田麦二(まえだ・ばくじ)
1891年(明治24)〜
    1974年(昭和49)

 1931年(昭和6)
 油彩・キャンバス
 51.0×61.0p


 前田麦二は1891年(明治24)下松に生まれ、後に徳山に転居しました。1926年(大正15)河上大二、久保白船らと徳山洋画協会を結成、1929年(昭和4)岸田劉生が徳山へ来た折には共に写生に出かけるなど交流をもちました。

  戦後は1946年(昭和21)に結成された防長美術家連盟に参加、各地の美術展の審査員をつとめるなど地域の美術振興に力を注ぎました。1971年(同46)には昔の生活や風俗を記録した「徳山の想い出」を制作、1973年(同48)に画集『徳山の想い出』として出版しました。

  劉生が徳山で亡くなった翌年の1930年(同5)、徳山小学校講堂で岸田劉生慰霊展が開催されました。この時劉生の弟子椿貞雄も徳山を訪れ、前田麦二と親交を深めました。これがきっかけとなり椿に勧められて国画会に出品した作品が「小樽の市場」です。

 

徳山公園


徳山公園(菖蒲園)

河上大二(かわかみ・だいじ) 1893年(明治26)
      〜1949年(昭和24)

 1933年(昭和8) 紙・水彩
 56.8×75.4p


  河上大二は1893年(明治26)に生まれました。本籍は岩国市で、経済学者河上肇、水彩画家河上左京は従兄弟にあたります。

  1918年(大正7)東京美術学校西洋画科を卒業、1921年(同10)療養のため徳山に転居しました。1926年(同15)に前田麦二、久保白船らと徳山洋画協会を結成しました。1927年(昭和2)帝展に「暮レ行ク漁村」が初入選、以後毎年帝展に出品し、1928年(昭和3)には大阪高島屋で個展を開催しています。

  1946年(同21)に結成された防長美術家連盟に参加しましたが、1949年(同24)死去しました。

  この作品は現在の周南市文化会館付近を描いたものです。

 


自画像

天野芳彦(あまの・よしひこ)
1912年(大正元)
     〜1980年(昭和55)

1931〜37年(昭和6〜12)
油彩・キャンバス 32.3×23.4p

自画像

  天野芳彦は1912年(大正元)岡山県笠岡で生まれ、少年時代から両親の郷里下松で育ちました。1931年(昭和6)徳山中学校を卒業、翌年東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二に師事、1937年(同12)同校を卒業、1941年に応召し1944年まで戦地にありました。

  1946年(同21)1月、防長美術家連盟が結成され、天野はこの会の中心となって活動しました。防長美術家連盟には前田麦二、河上大二、尾崎正章、中村脩、古木守や、当時光市に住んでいた松田正平も参加していました。

  1947年(同22)に山口県美術展覧会創設時の運営委員となり、1971年(同46)まで聖光高校、柳井高校、下松高校、徳山高校に美術教師として勤務、また工場に作られた絵画部の指導にあたったり、山口県、徳山市、下松市、新南陽市、柳井市の美術展審査員をつとめるなど地域美術の振興に力を注ぎました。

 

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